第27回大会シンポジウム「新しい実在論」報告           加國尚志

 日本シェリング協会第27回大会シンポジウムは「新しい実在論」と題して、二〇一八年七月八日に東京大学で行われた。

 「新しい実在論」とは、この十年来話題となっている現代哲学の新しい傾向の一般的総称であり、ポスト構造主義やポスト・モダン思想の流行も過ぎ去った感のある昨今、ヨーロッパを中心とした若い哲学者たちの世代が唱え始めた「実在論的転回」の運動を指すものである。日本でも「思弁的実在論」を主張するカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』が二〇一六年に翻訳出版され話題となり、二〇一七年九月にはグレアム・ハーマンの『四方対象』、二〇一八年一月にはマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』の翻訳が出版され、日本語でも「新しい実在論」の議論に本格的に触れることができるようになってきた。またこのシンポジウムのひと月ほど前にマルクス・ガブリエルが来日し、各所で講演を行い、テレビなどにも出演して話題となったことも記憶に新しい。

 世間に現れてすでに十年以上になるとはいえ、今のところ最新と言ってもよい現代思想の話題を日本シェリング協会のシンポジウムのテーマに選んだのは、基本的にはカントにおける主観の有限性の議論、そこから来る「物自体」の不可知性を根拠とする形而上学批判といった近代認識論の枠組みを「相関主義」として批判し、「物自体」をダイレクトに語る可能性を主張する彼らの哲学が、どこかでシェリングの問題設定と交差するからである。そもそもマルクス・ガブリエルは後期シェリング哲学の研究を行なっていた人物であるし、イアン・ハミルトン・グラントもシェリングの自然哲学に影響を受けたらしい。考えてみれば、カント以降の哲学という課題に取り組み、批判主義の限界を超えて絶対者への通路を自然の実在や神の存在から考えたシェリングに、このような文脈で光が当てられるもの当然のことであろう。これは果たしてポスト・カント主義的実在論としてのシェリング哲学やロマン主義の再生や復活の兆しなのだろうか。それとも、こうした流行も昔からある実在論や形而上学の焼き直しにすぎず、一時的なものに過ぎないのだろうか。私たちとしては性急な判断は控え、まずはこの流行の根本にある思想を理解し、共有することに努めたいと考えた。

 提題者はそれぞれこれらの「新しい実在論」に詳しい方々である。『非有の思惟』の著者であり、ガブリエルの論文の翻訳者でもある浅沼光樹氏は「ドイツ観念論と思弁的実在論 シェリング再評価の文脈」と題して、メイヤスー、グラント、エリザベス・グロスらの思想を、カント主義への批判とシェリング哲学との関連に絞って紹介された。カント哲学への批判とシェリング自然哲学への再評価が、グロスらによって思弁的実在論における政治性の問題にまで及ぶものであることを示された。近著『実在への殺到』で「新しい実在論」と西田哲学の関係などを考察した清水高志氏は「オブジェクト指向哲学と三項構造−『四方対象』に見るハーマン』と題して、ハーマンの四方界理論を対象の相互包摂的関係の理論として解釈された。ハーマンの哲学は主体と主体の相関よりも、対象相互の包摂関係を重視するものなのである。『偶然性と神話−後期シェリングの現実性の形而上学』の著者である橋本崇氏は「マルクス・ガブリエルと西谷啓治」と題して、新実在論と仏教哲学の接点を比較考察された。ヨーロッパ発祥の現代哲学と仏教などとも親和性のある西谷の宗教哲学の比較は意外なようであるが、西谷はもともとシェリング研究から出発した人であり、西谷が「空」として語った事態も、「空」の無底的な場所における「如実」な現象に「リアル」を見た西谷と感覚領域での現出を実在と認めたガブリエルとの、シェリングを介しての意外な近さから捉え直すことができるのである。

 提題の詳細については掲載された論文を参考にしていただくこととして、提題発表後の討論について簡単に紹介しておきたい。
 提題者間の討論では、新実在論とシェリングの神話の哲学、あるいはロマン主義との関係がまず議論され、清水氏からガブリエルは「アップデートされたロマン主義者」である、ということが語られ、浅沼氏からは、ガブリエルの語る全体構造としての「世界」の非実在性が、「空」や「底なし」など、西谷啓治についての橋本氏の言及と共通するものがあることや、「意味の場」の包摂構造がハーマンだけではなくガブリエルにおいても指摘できることが語られた。また橋本氏も、新実在論の「感覚領域」や「包摂構造」の概念に、「世界を心に映す」「物になりきり、物に入って内から開く」と言う境位を見いだすことができ、それは従来の科学の自然観と異なるものであることが語られた。またハーマンの「三項目」についての浅沼氏の質問に対して、清水氏は「内−外」の二項に還元されない中間項として包摂するものである、と応え、橋本氏は、現代思想の問題としての西洋の行き詰まりを日本が別の方向で考えてきたことの意味を指摘し、Gelassenheit(放下)を哲学の文脈で考えるという課題を指摘した。

 つづいてフロアから、武田利勝氏が、ガブリエルが「世界」について語っていることと「宇宙の直観」について語ったロマン主義の関係について、リルケの『ドゥイノの悲歌』第八歌を例にとり、中心と周縁(全体)を同時に包摂する構造について、そうした文学の中にすでに見られることが指摘された。それに対して清水氏も、ガブリエルがある意味ではロマン主義者であると言ってよいこと、彼において白と黒をまたぐような「テトラレンマ」の楕円構造を持つ日常的言明が認められており、それと本居宣長が「ものの心をわきまえ知る」と語ったような情念的な信憑との共通性を語った。浅沼氏も、ガブリエルがリルケに負っているものがあることを認めた上で、哲学のステータスとして「無限者への感受性」が挙げられること、芸術は意味の場の可視化につながるのではないかということなどを語った。橋本氏も『文学的絶対』を例にとりながら、文学においてどのような絶対が語りうるのか、という問題を指摘し、ガブリエルのような立場においてもそのような文学や芸術がなくてはならないものなのではないか、と語った。

 つづいて菅原潤氏から、ガブリエルの存在論的多元主義やグラントにおけるエコロジーとの接点などについてどう考えるか、という質問、また橋本氏はガブリエルと西谷を比較したが、むしろ九鬼周造や高橋里美の哲学と比較できるのではないか、という質問がなされた。それに対して橋本氏から、西田や西谷のいう「述語的なもの」はUnvordenklichなものであり、現れの予想のつかなさ、神の絶対的自由という問題とつながる、と回答があり、シェリングの積極哲学も「述語論」として、西谷の即非、無自性、空といった概念と比較して理解されうると述べられた。浅沼氏からは、ガブリエルの思想は日本や東洋全般の思想に近いのではないか、特定の人との類似の比較に限定しないほうがよいのではないか、という回答があった。菅原氏は、新実在論の語る偶然性の問題は、西谷啓治だけではなく、田辺元や高橋里美などその時代の日本の哲学の問題として考えるべきではないかと応答された。

 つづいて伊坂青司氏から新実在論が自然哲学、とりわけスピノザ主義におけるnatura naturans(能産的自然)の概念と親近性を持つように見えるが、どうか、と質問された。浅沼氏はそれに対して、グラントら新実在論のメンバーはジル・ドゥルーズの影響を受けた者がおり、ドゥルーズはスピノザ主義と呼べる側面があり、そこからシェリングへつながり、スピノザ的自然観の復活という主題は今こそ魅力的に見える、と答え、人新世やエコロジーなど主観ではコントロールできない何か根底=力のようなもの、人間の存在の条件を考察するのにシェリングの哲学が有効であると思うと語った。清水氏はグラントによるハーマン批判に言及し、オブジェクトの消長という問題からプラグマティズム(パース、ジェイムズ)の読み方が問題となることを指摘したうえで、新実在論と自身が研究してきたセールの生成論や西田の創造するモナドというモナド論などとの共通性を語った。橋本氏は、スピノザの哲学は必ずしも積極哲学ではなく、そのような視点はシェリングのみに維持されているとしたうえで、新実在論が宇宙論的視座で考えるという点ではスピノザ主義であると言えるのではないか、と語った。

 このように新実在論をめぐって、シェリング哲学、ロマン主義、日本哲学との関連について活発な議論が行われた。提題者に新実在論と反対の立場、たとえばカント主義や現象学の立場の人がいなかったので、提題者間で新実在論の是非をめぐって議論をするような形にはならなかったが、現代の哲学の問題と哲学史研究の接点について、多くの問題と見解を共有する機会となった。提題者の方々に御礼を申し上げたい。